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ちょびっと元号について 参 

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令和に託す



和をもって尊しとなす
孔子
論語 学而にこうある。

有子曰
禮之用
和爲貴
先王之道斯爲美
小大由之
有所不行
知和而和
不以禮節之
亦不可行也




           論語 学而 論語は 今から2千年も前の紀元前5世紀ぐらいの孔子の考え方。

           儒教は長い歴史がありますね。
           帝王学には陽明学といいますが、昔の武士はそらあんじました。



大まかな訳は
礼儀の意義は 社会の調和を保つことである。
古代の王たちの美徳も、この点にある
しかし例え調和があっても秩序が保たれるとは限らない。
調和を知り、調和の中で生きても
礼儀によって
秩序は保たれるべきである。



聖徳太子
そしてわが国では聖徳太子の十七条憲法にもあります。


日本書紀より抜粋
夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。
一曰、以和爲貴、無忤爲宗。
人皆有黨。亦少達者。
以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。


夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條を作る。
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。
人皆たむら有り、またさとれる者は少なし。或いは君父に順がわず、また 隣里に違う。
然れども、上和らぎ 下睦びて、事をあげつらうに かなうときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。


           法隆寺夢殿

          斑鳩宮(聖徳太子の宮殿)の跡と言われる法隆寺夢殿
          この地は 太子がなくなった後 蘇我氏により太子一族が滅亡された後廃墟。女子供も殺されたようです。
          上宮家滅亡事件643年
          その後100年ほど、 738年(天平10)ころ行信が造営。710年が平城京ですよ。

          夢殿が建立されるまでの100年ほどの流れは
          のちの天智天皇と 藤原氏に蘇我氏も乙巳の変により滅ぼされ有間皇子なども一掃された。
          世にいう大化の改新(645年)
          天智天皇の死 壬申の乱672年を経て 皇統は天武系になった。
          称徳天皇(女天皇 孝謙天皇の重祚)の崩御(770年)まで天武系が続きます。
          そして天智天皇の孫が光仁天皇(すでに62歳)となり、以降は 渡来系を母に持つ桓武天皇へ
          そして 天智系統が続いてきたのです。


          すんなりかと言うと 皇后と皇太子(井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子)が幽閉先で同時に死亡。
          彼らは天武天皇系の 奈良の大仏を作った聖武天皇の第一皇女とその息子。、
          天武系は抹殺されて祟りの天変異変と言うので、秋篠寺までが光仁天皇の命令で建てられました。
          天武系のひ孫が起こした乱がある。氷上川継の乱
          夢殿は天武系の頃に建てられたんですね。

           皇統の争いに多くの血が流された時代。
           その中で名も残らずに沈んでいった豪族なども多かったことでしょう。

和をもって貴しとなす理念はなかなか難しくもあり
だからこそ 胸に掲げてそうありたく思う 思想ですね





古来花は梅
古来花は梅を指しました。
その後は 花と言えば桜を指しますが。梅だったんです。



私 これ、忘れてて ある方からいい年になって古文以来思い出すように教えていただいて
着物で電車に乗っていたのですが、そのまま湯島天神へいって 早咲きの一輪 二輪を眺めやったことがあるんです。もう夕暮れで、
白さが 際立ってどんどん暗闇に落ち包まれて、、幸せな気分でした・
夢中だったけど 寒くてつらい冬だった。そこから 春告草ともいう梅を 独り占めしました。


          宸殿左近の梅

       
調べると 宮中紫宸殿の前の左近の桜 右近の橘は元は左近の梅だったのです。
天智系の桓武天皇は平安京に遷都します。
そしてその時は梅が植えられたのですが、その後の嵯峨天皇が桜がおすきで お好きで花見は梅から桜へ
そして左近の梅も その息子の仁明天皇の時に枯れたというので 桜になったとか 村上天皇のときだったとか諸説ある様です。変えちゃったんです。

平城天皇の孫の在原業平の歌に
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし と言う有名な和歌があります。
平安初期 桓武天皇の第一皇子だった平城天皇と 第二皇子だった嵯峨天皇が争います。
薬子の変です。
薬子の変が成功したら 都は再び奈良に移ったのでした。
平城天皇は破れて出家 嵯峨天皇は権勢をふるいます。そして紫宸殿の梅が桜になったのでした。
桜は 嵯峨天皇と藤原氏を指し いなかったらさぞやのどかだったろうにと言う意味でもあったとも言われてます。
皇位争いは承和の変へとつながってゆき、藤原氏によるあからさまな 他氏追い落としの最初の変ともいわれます。


上の写真は古来にのっとった 大覚寺宸殿前庭の左近の紅梅です。そうです皇統争いの大覚寺統(南朝)の。嵯峨御所。
私たちの祖先達も 皇統争いのたびに右往左往。
歴史の長い私たちの国、色々な事がありましたが、それも長い歴史のなかではさしたることもなし。
何百代もここで暮らしてきましたね。
大事なことはつながってゆくこと。国があること。民族が幸福に繁栄すること。




万葉の花
令和の典拠は万葉集 大宰府の大友旅人の梅の宴で読まれた歌の序文から。
臨書で親しみのアリ王義之の蘭亭序のように  梅花謌卅二首并序から。

于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
読み下し文は
時ときに、初春の令月にして、きよく風和らぎ、梅は鏡前の粉をひらき、蘭は珮後の香を薫らす。

          ミラドー 梅

大伴家は天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族。
白村江の戦いでは 息子の 大伴家持が海ゆかばを作ってますね。武門の名家ですね。




令和 
和せしむ。

早春の 冷たい大気の中 かすかにかおる薫風に 
暗闇でも 雪中でも花は見えねど 確かにそこにある存在のような梅。芳醇とした気品。そういう日本の時代にしたいものですね。
和らぎを持って貴しとする。当に覇道でなく王道の実現ですね。

私たちはそういう時代を生き抜く一員。
仁徳と誇りを持ち 分をわきまえて和らぎの時代をつくってゆきましょ。
それはなかなか難しいのです。

いよいよ 明日
清々とした朝に蕾が膨らみ開くように 開かれますね。

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